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【自分とは何者か?を真剣に考えてみた】

Key ward:役割、義務と意思、自分

 

こんにちは。

東京で食べたワタリガニのパスタを

忘れられない古川です。

 

海外に来ると

日本で食べられる料理が

愛しくなるのは僕だけでしょうか。

IMG_2681

 

そんな話は置いといて。。。

 

 

前回の記事で

なぜ海外の活動家の人は“権利を主張するのか”

を、僕たち日本人と比べ

圧倒的な“経験の差”がそうさせると

僕なりにまとめてみました。

 

僕たちには到底考えのつかない経験が

彼の思考を形成し、行動に移されている。

 

と言うことでした。

リンクはこちらです。

⬇︎

スクリーンショット 2018-04-17 2.13.11
https://anatatoboku.blog/2018/04/15/%E3%80%90%E6%B5%B7%E5%A4%96%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%9A%84%E6%B4%BB%E5%8B%95%E5%AE%B6%E3%81%AB%E5%85%B1%E9%80%9A%E3%81%99%E3%82%8B1%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88%E3%80%91/

 

さて、今回は‼︎

こういった活動する方々に総じて

共通する点があることを紹介します。

共通点シリーズ!いえーい。

 

 

活動家の方々は

権利を主張する中で、

 

自身の役割

 

を明確にしています。

 

 

 

僕たちは何がしたいのか?

自分とは何者なのか?

というところで

 

これらは人間の生きる“意味”

つながっていると僕は考えます。

 

 

この問いに答えられる方は

中々いないと思います。

 

僕も明確にこう生きたい

なんてものは明確にありません。

 

皆さんは日常に

時には、自分らしくないことしたり。

振る舞いたくないことをしたり

僕たちの身近な話でいうということが

あったりしませんか。

 

お金に困っているから、

水商売に手を出したり。

 

親からの圧力で、

親にとって良い子を

演じなければならない。

 

友達との関係を壊したくないから

大人しくする。

 

とかとか。

 

現実と理想のギャップが

見え隠れする中で

 

どうすれば自分らしく

生きることが

出来るのでしょうか。

 

これらを沢山考えた末に

答えが見つからず

悩む人を何人も見てきました。

 

そこにまた

超簡単な答えを

彼は体現しています

IMG_2785

答えは単純で

 

誰かに求められていると

感じることができるからする。

 

 

基本的に

人は求められることによって

(自発的に求めているのは、根底には誰かに求められたいから)

 

自身の役割を決めるのだと思います。

(強制の場合もあります)

 

多くの人は、

親に子供らしさを求められているから

子供を演じてきたし

あなたにしかできないことを頼まれると

それを出来る自分を全力で演じます。

 

なんか“特別感”があって、

嬉しいですよね。

 

なんというか、

僕って生きてるー。

て感じがしますよね。

 

でも。最近感じるのですが

その与えられた役割に対して

 

僕は

かなり狭い捉え方、生き方をしているな。

と最近つくづく感じているんです。

 

これを意識しないと

きっと誰かを傷つけてしまう

と危機感を抱いております。

 

それについて言及して

いこうかと思います。

 

では、参りましょう。

 

役割とは

僕の役割をざっと洗いだしてみました。

  • 家族での役割
  • 会社・大学での役割
  • 社会での役割

の3つの役割が大きく分けて存在しています。

 

結論から言うと

全ての役割に一貫した

自身の意思が含まれている必要が

あると感じています。

 

この場合の意思は、

自身が見ている社会

人との関わりをどう捉えるか?

です。

 

 

例えば

家族での役割の中で

僕が家族だからといって

自分の思い通りになるようにしたいから

冷蔵庫の兄の名前付きプリンを

兄の了承を得ずに食べて

兄を怒らせたとします。

 

あ、ちなみに実話です。笑

 

その時

僕は家族と共存している

ということを

自覚していないんですね。

 

 

兄からしたら、

「おー。俺のプリンが、、、このやろー。」

というふうになります。

 

※実際、僕はガチギレされました。

(大学1年生の夏)

 

それは家族には

100歩譲って受け入れられる

かもしれませんが、

 

会社、なんなら国家レベルで

そんなことをすると

もう大変なことです。

犯罪です。そして戦争です。

 

 

その時の僕の自身の中にある

無意識的な意思は、

 

「周りの人は関係なく

そこにあるものは全て僕のもの」

 

という捉え方でした。

どっかで悪気はあっても、

家族だから許してくれるだろうし。。。

 

と思っていたんですね。

 

 

家族を構成するための

役割を頂いているのにも関わらず

 

家族の中だし、

相手はお兄ちゃんだし

許してくれるだろう。

という

とんでもないロジックを

展開していました。

 

猛反省です。涙

 

そこで僕は学んだことがあるんです。

 

僕はそれぞれのコミュニティ

(家族、会社・大学、社会)での

役割を前提に行動を選択していた

つもりだったんですけど

 

よくよく考えると

大きな間違いを冒していました。

 

全ての意思決定

つながっていたんですよね。

 

会社でも、大学でも、

社会でも自己中極まりない

意思決定をしていました。

 

もう一度言います。

猛烈に反省しております。

 

 

自分への戒めに、ダンベルを持ち上げてみました。

IMG_9202

 

 

そこで気づいたことがあって、

僕が見ている世界は本当に狭かったんです。

 

そして

日々生きる中で

自分は誰かと関わり合いながら

生きているんだと

気づいたんですね。

 

プリンが教えてくれました。

 

ありがとうプリン。

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そこで、

役割を要素分解して

そこで考えた末に

わかったことがありました。

 

役割に含まれる要素を分解すると

① 義務・態度 ② 意思によって

構成されていることがわかります。

 

 

①義務・態度は、それぞれの役割でしなければならないことです

例えば、サッカーでいうと分かりやすくてキーパーならゴールを守るということが最大の役割です。キーパーの最大の役割がゴールすることではないですよね。

 

② 意思は、①を実行に移すための思考であります。

 

ここであげる重要なのは②の意思です。

ここでの意思とは、何のためにどういう判断をするのか?です。

 

では、僕の例だけでは、乏しいので

意思に欠けてしまった役割の例をあげます。

 

第二次世界大戦化で怒った出来事

以下、ドイツの映画から得た情報ですが、

 

ドイツの総統であったヒトラーはご存知ですか。

思い出すだけで寒気がします。

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第2次世界大戦下

ドイツの総統であったヒトラーは

ユダヤ人の迫害を命じました。

 

その際にユダヤ人を

収容所に入れていく訳ですが

 

ヒトラーはナチス兵に

ユダヤ人の殺害を命じます。

 

兵隊は命じられた役割である

 

「殺害」

 

という義務を執行しました。

 

もちろん兵隊は役割を執行しただけです。

彼は、はむかうと自分が殺されると

わかっていました。

 

 

しかし、戦争が終わった後

その兵隊は裁判所に判決を下されることになります。

 

 

その時に、彼は何と言ったか。

 

「役割を全うしただけ」と言うんです。

 

裁判官からすると、

事実は殺害したという事実がポイントですが

 

 

兵隊には殺害という意思はなく

あくまでも役割を執行しただけ

というのです。

 

これでわかるように、

役割は持つものの

 

役割を持つ中での意思なき選択は

残酷な結末さえももたらす

可能性があるということです。

 

 

 

だから、僕は考えました。

 

多くの人と“共存”できる人材にならないと、

誰かを傷付けてしまったりするのだと。

 

今は、常に僕の意思の中には

共存というワードは欠かせないです。

 

共存という言葉自体が明確に

なっているわけではないですが

 

 

この行動は

「あの人ならどう思うだろう」

と考えて

 

主観から離れ

物事の判断を客観視

するようにしています。

 

そこで、僕が意思を固めるために考えるのが

(僕の考え方なので参考にならないかもです)

 

より大きな社会での役割

つまり地球規模で

 

誰かに求められていると

感じることができるからする。

 

ことを探すことです。

 

そうすると自然に

行動の意思決定は

変わって来ると思います。

 

役割の中で〇〇しなきゃならない。

という思いも

消えていきます。

 

なぜなら選択の基準

根本的に変わるからです。

 

 

 

というか

自らが

選択する自由を勝ち取ったから

と言えます。

 

前向きに、前向きに!歩きましょう。

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これからも自分の行動に責任を持って、

好き放題書かせていただきます。

 

矛盾していますかね。

ということで!

 

 

以上、役割を真剣に考えてみました。

今回も読んでいただき有難うございます。

 

 

次の記事は、国家としての役割とその個人の選択をタイトルに

ルソーの社会契約論を用いて

国家の名の下に人々は統制されているという認識の下、

制度下において個人の自由を追求し、社会にどう貢献できるのか?

を考えていければと思います。

 

有難うございます。

カテゴリー

幸せ

古川しゅうと すべて表示

どもども、努力は実る。馬鹿でも出来るってことをこの社会に示したい。
この社会でボクはどう生きたいのかを赤裸々に、でも怯えながら更新中

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